錯体の配位子置換反応について
中心金属イオンをM、配位子(ligand)をLで表すようなある錯体を考える。このとき組成がML、ML2、ML3、・・・と表される一連の錯体が生成する場合がある。その具体例として、カドミウムイオンCd2+とアンモニアNH3が結合して生じるアンミン錯体が挙げられる。下にこの反応の反応式を示す。
Cd2+ + NH3 → [CdNH3 ]2+
[CdNH3 ]2+ + NH3 → [Cd(NH3)2 ]2+
[Cd(NH3)2 ]2+ + NH3 → [Cd(NH3)3 ]2+
[Cd(NH3)3 ]2+ + NH3 → [Cd(NH3)4 ]2+
[Cd(NH3)4 ]2+ + NH3 → [Cd(NH3)5]2+
[Cd(NH3)5]2+ + NH3 → [Cd(NH3)6]2+
この反応は反応式ではアンモニアの付加反応に見えるが、実際にはアンモニアの付加ではない。
ほとんどの場合、中心金属イオンは溶媒中で、溶媒和している。例えば溶媒が水である場合、つまり水溶液中では、Cd2+は水和した状態で存在する。そのため、Cd2+は、正確に記述すると[Cd(H2O)6]2+と表される。よって、 [Cd(NH3)n]2+は正確には [Cd(NH3)n(H2O)6-n]2+となる。
この反応は中心金属イオンに配位していた水分子とアンモニアの置換反応であり、配位子置換ともいう。最大の配位数nは、中心金属イオンと配位子の大きさによって変化する。
生成定数、逐次生成定数、全生成定数について
これらの錯体の生成定数は、逐次生成定数と全生成定数の2通りの考え方がある。生成定数は安定度定数ということもある。
逐次生成定数は、段階的な配位子置換反応に対する平衡定数であり、ここでは、、、・・・と表す。これは、それぞれの反応に対して、次のように求めることができる。ここで[ ]は、モル濃度を表す。
M + L ⇄ ML
ML + L ⇄ ML2
MLn-1 + L ⇄ MLn
全生成定数は、次の反応に対する平衡定数であり、ここでは、、、・・・と表す。これは、それぞれの反応に対して、次のように求めることができる。
M + L ⇄ ML
M + 2L ⇄ ML2
M + nL ⇄ MLn
また、逐次生成定数と、全生成定数との間には、次の関係が成り立つ。
中心金属のイオン価が同じ場合、共通の配位子をもつ一連の錯体の生成定数は、中心金属イオンと配位原子間の距離、もしくは金属イオンの半径の関数となる。金属イオンの半径は小さくなればなるほど、生成定数は増大する。
また、キレート錯体はキレート効果によって、大きな生成定数をもつ。
アービング-ウィリアムスの系列について
第一遷移元素系列は3d軌道の充填に対応するスカンジウムから銅までの9元素のことをいう。これらの元素の2価イオンの錯体では、生成定数の大小関係はMn2+<Fe2+<Co2+<Ni2+<Cu2+>Zn2+のようになることが知られている。これをアービング-ウィリアムスの系列もしくはアービング-ウィリアムズの系列、アービング-ウィリアムスの安定度系列という。ただし、2価の金属イオンが高スピン型と低スピン型の2通りをとる可能性がある場合には、高スピン型をとるものとしている。ちなみにイオン半径は低スピン型を取るときのほうが小さくなる。
アービング-ウィリアムスの系列は、イオン半径の順が反映されている。銅(II)イオンCu2+で生成定数が最大になっているが、これは、ヤーンテラーひずみにの影響である。z軸方向の配位子はxy平面上の配位子よりも離れた位置に存在する。そのため、Cu2+の錯体の構造は平面正方形とみなすことができる。平面正方形配位では、正八面体型配位よりも配位原子が金属イオンに接近するため、Cu2+の半径は小さくなったと考えることができる。
配位子置換反応の速度について
錯体の配位子置換は色の変化を伴う場合が多い。そのため、溶液中の反応の場合、色の変化する速さから配位子置換の速度を考えることができる。
硫酸銅(II)水溶液にアンモニアを加えると、溶液の色はほぼ瞬間的に淡青色から濃青紫色に変化する。これは、銅(II)イオンに配位していた水分子がアンモニアによって、急速に置換されたことに由来している。
ここで生成したテトラアンミン銅(II)イオン硫酸塩の青紫色の結晶を分離し、水に溶かすと溶液の色は淡青色になる。これは、先ほどとは逆にテトラアンミン銅(II)イオンの銅(II)イオンが水によって水和し、アクア錯体に戻ったことに由来している。このように銅(II)錯体では配位子置換反応の速度は非常に速い。
ヘキサアンミンコバルト(III)錯体は黄色の結晶である。ラテン語で黄色を意味するルテオから、ルテオ塩ともよばれる。希水溶液中にルテオ塩を加えても、溶液の色は変化しない。これは、銅(II)イオン錯体とは、反対に配位子置換が起こらないことを示唆している。実際にはコバルト(III)錯体の配位子置換反応の速度は非常に遅い。
配位子置換反応の速度と置換によって生成する錯体の生成定数は、特に関係はない。つまり生成定数が大きくても、配位子置換反応の反応速度が速いとは限らない。
ただし、一般的には中心金属イオンと配位子の結合距離が短く、強く結合しているほど、配位子が置換される速度は遅くなる。配位子置換反応の速度とイオン半径の関係を表す例として、アクア錯体中の水分子が溶液中の水分子によって置換される反応がある。
この反応の速度は、中心金属イオンの種類によって次のような順になる。
Cs+>Rb+>K+>Na+>Li+
Ba2+>Sr2+>Ca2+>Mg2+>Be2+
元素周期表を思い浮かべればわかるように、これはイオン半径の順と同じである。また、イオン半径が同じ場合、イオン価が大きいほど置換の速度は遅くなる。つまり、金属イオンと配位子の結合が強いほど、もしくは結合が共有結合性であればあるほど、反応の速度は遅くなる。
遷移元素の八面体錯体にも、同じ考えを適用すると、2価よりは3価のイオンが置換反応の速度が遅くなり、高スピン型よりは低スピン型のイオンが置換反応の速度が遅くなることが予測できる。
置換活性、置換不活性について
配位子置換反応の速度が速いことを置換活性、遅いことを置換不活性という。
置換不活性錯体を構成成分の直接反応で合成することは難しい。そのため、置換不活性錯体の合成は置換活性錯体を経由して行われる。
例えば、クロム(II)錯体、コバルト(II)錯体は置換活性であり、クロム(III)錯体、コバルト(III)錯体は置換不活性である。そのため、ヘキサアンミンクロム(III)錯体はクロム(III)イオンをクロム(II)イオンに還元した状態でヘキサアンミンクロム(II)イオンを合成し、酸化することで合成される。ヘキサアンミンコバルト(III)錯体は、コバルト(II)塩にアンモニア共存下でコバルトを2価から3価に酸化することで合成される。
置換活性、置換不活性は中心金属イオンの電子状態によって決定される。置換不活性錯体が2種類の錯体と結合している場合には、配位子によって反応性に多少の差がみられる。これを利用することで、置換不活性錯体から他の錯体を合成することもできる。